日本社会の余裕のなさ:自分達の首を絞めているのは、自分達かもしれないよということ

海外LIFE


夫の海外転勤に伴いアメリカに来て1か月が経ちました。3歳娘もようやく現地の保育園に慣れてきて、ようやく生活が軌道に乗ってきている実感があります。10月31日、本日はハロウィン。こちらでは、子供もパパママも、もっと言うと、おじさんもおばさんも、おじいちゃんもおばあちゃんも仮装して、浮かれ具合が楽しいです。


アメリカの保育園、日本の保育園と比較して、両親への負担が少なく、予想以上に快適です。日本であれば、エプロン・着替え・夏には水着を用意して、連絡帳に毎日子供の様子と体温を記入しますが、そのような事前の準備は一切なし。文字通り「子供の身一つ」でDrop offすれば大丈夫です。


加えて、保育士さんもルーティンワークが少なく余裕があるため、見ていて安心感があります。ランチやおやつもペーパープレートで提供され(日本なら食育がうんうんとクレームがきそう)、着替えさせる必要もなし、こうすべし・こうあるべきというルールや規範が少ないからか、園全体が自由な雰囲気です。

今、日本に必要なのは幸せを感じるための「余裕」


今振り返ると、日本の保育園、親も先生も本当に余裕がなかったように感じます。


1年前、我が娘が通っていた都内認可保育園でのこと。保育士の残業が長時間に及ぶことから、働き方改革を推進するという名のもと、日々両親と先生のコミュニケーションツールとなっていた連絡帳を廃止、また、保育士が子供のためにつくる制作物の廃止を検討するのはどうかと案があがりました。


その案に対して、親たちは大反対。子供の様子を知れる機会がなくなる、成長を記録した大切な思い出であるから寂しいetc.、反対の理由は様々です。


それは確かにそうかもしれませんが、いやいやちょっと待ってください。ママ同士で集まれば、日々の生活に余裕がない、連絡帳を書くのが大変だとあれほど言っていたじゃないですか。そして、今の保育士さんたちには余裕がなさすぎる、もっと改善した方がよいのではないかと言っていたじゃないですか。


東京で共働き、ワーママをして3年。私なりの結論としては、幸せを感じるには「余裕」がなくてはならないと思っています。日々の暮らしの中で、毎日仕事に追われ、家事育児に追われるような生活をしていては、目の前に転がる小さな幸せだって見逃してしまう。だからこそ優先度が低いものはそぎ落とし手放すことで、余裕を手に入れる。それが、仕事も家庭も大事にしたい私にとって、幸せを感じるための絶対条件と考えていました。


確かに、保育士さんが丁寧に作ってくれたプレゼントは、今でも我が家のリビングに飾ってあり、それはそれでとても素敵です。しかし、だからといって保育士さんの残業の上に、もっと言うと保育士さんとその家族の時間を犠牲にした上で、あの制作物が成り立っていると、それはそれでいたたまれない気持ちになります。


そして、毎朝毎朝、時間のない中で書いた連絡帳は、今では日々の努力の結晶となり、我が家のクローゼットに大切に保管してありますが、毎朝100文字書くあの手間がなければ、「邪魔しないで!」と怒ることもなく、娘ともうちょっとだけゆったりとした時間を過ごせたかもしれません。

手放すことが苦手な日本人、結果「余裕」がない


思い出話が長くなりましたが、保育園の話もしかり、もしかしたら日本人は手放すことが本当に苦手なのかもしれません。ビジネスの場でも、社会全体でも。何かを始めるにも必要以上に慎重になりがちですし、何かを止める、廃止する決断をすることに、とても時間がかかる。本当に小さなことでも、決断を受け入れるまでに、周到なコンセンサスと心の準備が必要なようです。


やってみてアウトプットがいまいちだったら止めればよいし、止めてみて、やっぱり前の方が良かったらまたやってみればよい、そういった小さな軌道修正をしながら物事を進めていくことが苦手なようです。やめるというコンセンサスを取りに行くための努力をするくらいなら、続けてしまった方がラクなんですよね。だって、組織において誰もハレーションを生むようなアクション 望まないからです


だからこそ、小さなことでも手放せずに続けてしまい、結果、社会として、個人としていっぱいいっぱいになってしまっている。だからみんな、幸せをかみしめる余裕がない、という状況になっているような気がします。


今日、日本に必要なのは、「余裕」です。そして、「余裕」を生み出すには、何かを止める・手放すか、もしくは代替してくれるサービスや人を手配するしかありません。「本当に大事なことは何か?」ということを考えてみると、もっと手放せるものはたくさんあるように思うのです。

完璧な状態は、誰かの努力・手間・コストの上になっている


余裕を奪っているもう一つの原因に、日本の完璧を追求したがる文化背景があると思います。特に、顕著なのはビジネスシーン。ビジネスの場面でも常に問題がないように100点を目指します。しかし、結果として100点を目指すということは、その過程で目指すべきは120点でなくてはならないわけです。つまり、120点を目標に細部にわたるまで完璧を目指し、やっと100点のアウトプットが出せるだろうというわけです。


100点を目指すということは、本当に効率が悪く、例えば、60点を70点に上げる努力と、90点から100点に上げるのでは、同じ10点ほどでも必要となる努力量は相当に違います。


少し海外とビジネスをやった方なら経験があるかもしれませんが、多くの場合、日本人の肌感覚で言うと、彼らが目指すのは60点~80点くらいです。そして残りの20~40点は、問題が起きてからでも調整でなんとかする、それくらいの感じです。


今、日本で起こっていることは、結果として100点が出るように120点を目指し、色々な社会の歪みを生みながら相当な残業をし頑張ったあげく、でも、結果的に完璧などありえない為、行き届かなかった数点の部分について、消費者が文句を言っているような構図です。


そして、極度にディテールにこだわる企業のあり方が、現場の柔軟力やイノベーションの創造を阻み、日本企業の発展を妨げているようにも思います。


先日、アメリカの家電量販店でこんなことがありました。


この出来事から思うことは、日本のリテールの現場に少しでも裁量があり、融通をきかせた対応ができれば、製品やサービスの質が90点でも十分にオペレーションができるだろうと思いました。そして、その方が顧客の満足度も高いという皮肉です。


消費者として私たちにできることがあるとすれば、完璧な製品、完璧なサービス、完璧な対応を求めないということでしょうか。完璧な製品、完璧なサービス、完璧な対応を求めるということは、より手間がかかる、すなわち本来ならばコストがかかるということを認識することかもしれません。


サイゼリアでも、マクドナルドでも、ダイソーでも、メトロでも、日本はサービスや製品が良すぎて忘れがちですが、それは企業や現場のムリな体質の上に成り立っているかもしれないということに、もう少し思いをはせても良いのかと思います。なぜなら、その製品やサービスの裏には、そこで働く従業員がおり、その人達の余裕、そして幸せを犠牲にした上で、成り立っている可能性すらあるからです。ちょっと不具合があってもいいじゃないですか。それくらいの寛容さが、社会全体の生きやすさを取り戻す秘訣のように思います。


家庭においても、社会においても、ビジネスにおいても、スタンダードはこれだという目線を下げ、手放せるものは手放してみる、そうした方がずっと幸せを感じられるかもしれませんね

この記事を書いた人
155naicai

▶︎ 女性のキャリア・生き方を考えるマガジン Wherever we are の管理人 ▶︎ ちょっと前までバリキャリ商社ウーマンでワーママ。2019年に起業、現在はアメリカ在住 ▶︎ 自身の東南アジア駐在、中国留学、アメリカ生活などの海外経験に基づき、海外経験から学んだ価値観も踏まえながら、キャリア・生き方・働き方など情報を発信中

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